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お客様の中に蜜柑を投げる方はいらっしゃいませんか   ―芥川龍之介「蜜柑」を手がかりとした、善と美に関する一考察―

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お客様の中に蜜柑を投げる方はいらっしゃいませんか   ―芥川龍之介「蜜柑」を手がかりとした、善と美に関する一考察―


 車ってこう、たまに乗ったりとか初めて行くところで乗る分にはいいんですけど、同じ路線を何度も何度も乗ると飽きてきますよね。特に通勤通学で何百回と同じ電車に乗っている方はそうでしょう。何百回と見る変わり映えのしない車窓の風景に風情などあるはずも無く、そんなの見せられても日常の倦怠感と疲労感がさらに加速していくだけです。私もそんなわけですので、電車に乗るたびに、窓の外に蜜柑を投げる人はいないかなと思っています。


 皆さんは電車から蜜柑を投げる人を見たことはありますか。私はありません。ほとんどの方もないと思います。では、実際にそれを目撃したらどうなるでしょう。走行中の車両から、色鮮やかな蜜柑が5つ6つ、空中に放り出されたら…。私はぎょっとします。そう、このぎょっとする感覚が欲しいので、蜜柑を投げる人はいないかと電車の中でじっと注意を払っているわけです。





 
 車に乗っていると何年も前に自分が遭遇したある出来事をいつも思い出します。


 その電車はちょうど帰りのラッシュアワーよりも少し前の時間帯で、自分が乗り込んだときはまだ空いていたので席を見つけて座ることにしました。そしたら知り合いの人が近くにいて、私はそういう時は水か空気か岩のように気配を消すように甲賀の里で教えを受けていますのでその通りにしてたんですけど、そのまま観察すると対面型のボックス席に座った彼は向かいの席をオットマン代わりにしていて、それを見てるだけでもう気配を消しきるのが大変でした。車内が込み始めても伸ばした足を戻さない。立っている人がいても気づかない。そのうち足を曲げたくなったのか元に戻しましたけど、結局その席には彼と彼とはす向かいに座ったもう一人の2人だけが座っていました。まあ立派な体格の人だったので、周囲の人も注意し辛かったのでしょうね。でまあ、もうその時から嫌な予感はしてたんですけど、やっぱりトラブルになりましてね。お弁当食べ始めたんです、その人。そしたらはす向かいに座った人がついに堪忍袋の緒が切れたのか、抗議しまして。「他の人も乗ってるんだから食事は遠慮してください。そんな常識も守れないんですか」、と。
 

  そしたらその人はこう答えました。「それは私の決めることです」
 なるほど、一理あります。確かに電車の中では食べ物を食べてはいけませんなんてルールはどこにも書いてありませんし、電車の中ではどんな状況でも食べるなといわれても非常に息苦しいものを感じます。ではどんな状況では食べてはいけないのかというと、それはもうケースバイケースですし、その辺は各自が主観的に判断するよりありません。そういう意味で、確かにこの人が言ってることには一定の正しさがあります。


 しかしこの人、美しくない。正しいとか正しくないとかではなく、美しくない。何が美しくないかって、他者の存在を完全に無視するその態度が美しくない。普通、人はめったなことでは怒りません。大人になればなるほどそうですし、ましてや満員電車の衆人監視の中でとなれば、これはもう大変勇気の要る行動です。まれに日頃のストレスをぶちまけるために大声で怒鳴りつける人もいますが、あの時はそんなんじゃなかった。静かに、待ちかねたように、声を絞り出すようにして、怒っていました。弁当食べてたあの人にはその心を推し量ることができなかった。その気構えが美しくないのです。

 
 このときはこの光景に別に何か特別な感じは受けませんでした。確かにあまり遭遇しないような出来事ですが、向かいの席に足を伸ばしているような人ですから、まあこんなもんかと思ったわけです。これではぎょっとしません。もし、ここで素直に引き下がっていそいそと弁当を片付けはじめたら、その後に相手を怒らせたことに対するお詫びの一言でもあれば―ただし、これらの動作や言動は決して慇懃無礼なものであってはならず、相手への配慮を感じさせるような美しいものでなければならない―たぶんぎょっとしたと思います。向かいの座席に平気で足を伸ばしていた時点でもう、そういうことができる人のようにはちょっと見えなかったわけですから。そして、その人について「ああ、ちゃんと話せば分かる人だったんだ。よかったよかった」と、ほっとした気分になっていたことでしょう。ぜひともそうさせて欲しかった。そういう暖かな心持にさせて欲しかった。





 車、というか汽車の中での風景を描いた作品として、芥川龍之介の「蜜柑」があります。物語の登場人物はほぼ2人。語り手と、彼と汽車に乗り合わせることになった女の子です。


 語り手の、たぶん男は、日常に飽きていました。言いようの無い疲労と倦怠感に苛まれ、どうにも憂鬱な気分であったようです。東京方面の汽車に乗った彼ですが、そんな気分でいるものですから、目に入るもの全てがどんよりとして見えます。そこへ件の女の子が同じ車両に乗り込んできました。ところがこの女の子、見た目が悪い。肌は汚い、髪は汚い、服も汚いのハットトリックをキメています。しかも乗る車両を間違えて本来よりも高等なものに乗っていますから、それも語り手に悪い印象を与えています。極め付けにこの子、窓を開けようとします。トンネルの中で。―最悪です。知ってる人は知ってると思いますが、煤が入ってきて真っ黒になります。そして実際にそうなりました。女の子は知らなかったんでしょうね。知らなかっただけならしかたないし謝ればまだ多少は許されようものですが、この女の子は悪びれたそぶりを一切見せません。もうこの子は、少なくとも語り手にとって、内面も外見も善なるものは一切なく、まるでもう悪が塊になって歩いているような存在であると言えるでしょう。


 しかし語り手はその後、女の子が窓を開けたその理由を知ることになります。汽車がトンネルを出ると、小さな子どもたちが線路沿いに立っていました。女の子はそれを見つけると、懐から何個かの蜜柑を出してそこへばら撒いたのです。ここで語り手は一切を悟ります。女の子がこれから田舎を出て奉公先へ向かうこと、線路沿いの子どもたちは彼女の弟であること、女の子が投げた蜜柑は見送りに来た彼らに向けられたものであること…。この経験の後、語り手の女の子に対する印象は一変します。「まるで別人を見るように」女の子を見たと言います。


 女の子が汽車から蜜柑を投げた光景は、「切ないほどはっきりと」語り手の心に焼きつきましたと言います。汽車から投げ出された蜜柑の色彩は、それまでの語り手の気分とそれを反映するかのように薄暗い景色と対比され、鮮烈な印象を語り手に与えています。それは、「心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている」と語られています。語り手が見たこの光景はさぞ美しかったことでしょう。そして語り手が女の子の善に気づいたのもまさにこの美に触れた瞬間でした。物語の時系列はそうなっています。女の子が蜜柑を投げる、それを見る、その美しい印象を受ける、その状況の裏側にあるものを推測する。この手順を踏んでようやく、語り手は悪にまみれているかのような存在だった女の子の内側にある善を見つけることができたのです。







 うです、「蜜柑」における語り手は、その場面に鮮やかに現れた美に触れることによって、そこに隠されていた善に気づくことができたのです。ここに善と美の関係について考えるためのヒントがあります。つまり、美とは、自分がまだ見つけていない善に気づかせてくれる、そういうはたらきがあるとは考えられないでしょうか。


 皆さんはカラオケでこんな経験はないでしょうか。全然知らない曲を誰かが歌っていて、でもその歌詞が、メロディーが、あるいは歌っている様が美しくて(きれいで、あるいはかっこよくてでも構いません、この記事で意味するところは同じです)、「おっ、こんな歌があるのか、これはいいかもしれない」と思った経験は。これですこれ、私が言いたいのは。美しいものは、それに新しく出会った私たちに自然と「ひょっとしてこれ、いいかもしれないな」という風に考えさせてくれます。まさか美しい(きれいな、あるいはかっこいいでも構いません、この記事で意味するところは同じです)と感じていながら「あっ、これは全然ダメですわ、最悪」と考える人はいないと思います。私たちが何かを美しいと感じているなら、少なくともそのかぎりにおいて、その何かについて「いいかもしれない」と考えているはずです。美しいものは、それについて「いいかもしれない」という方向に考えさせるのです。


 美しいものは必ず善いものであるとは限りません。反例はたくさんあります。ですから私たちはそういったものに惑わされないようにしなければなりません。しかしそれ以上に大事なのは、美しいものにちゃんと気づくことです。私たちが美しいと感じるもののほとんどは習慣に依存しているため、ぼんやりと日常を過ごしていると新しい美しさを見逃してしまいます。この記事で私が述べているのは、習慣的な思い込みによる美しさについてではありません。そこには驚きがありません。習慣的に美しいと思われているものはそうあって当然であるからです。そうではなく、新しく美しいものに触れたときには、驚きがあります。「ぎょっとする」感覚です。しかも、これは醜いもの、気持ち悪いものに触れて「ぎょっとする」感覚とは違います。美しいものに触れて「ぎょっとする」すると、そこに秘められた、今まで気づくことのなかった善を見つけることができる可能性があります。そしてもしその新しい善を見つけることができれば、そのことには大きな喜びが伴います。「蜜柑」の語り手も述べていました。あの光景が「切ないほどはっきりと焼き付けられた」後、「或得体の知れない朗らかな心もちが湧き上がって来るのを意識した」と―。


 「蜜柑」の語り手が経験したような喜びを得るためには、常に新たな美しさの可能性に感覚を研ぎ澄ませていなければなりません。もし「蜜柑」の語り手もあの情景を鮮やかなものと感じることができなかったなら、いつもと変わらない気分のまま気怠い日常の中へと帰っていったことでしょう。ここをご覧の皆様も、中には今まで何百回と電車にお乗りになった方もいらっしゃると思いますが、もしかしたら誰かが蜜柑を投げているあの美しい光景に気づかないまま見過ごしてしまったことがあるかもしれません。これは大きな不幸と言えます。ルーチンワークのような日々の中でも、こうした場面に気づくことができれば、退屈な日常から抜けだして、「得体の知れない朗らかな心もち」になることができるのです。これはとても幸福なことです。しかも貴重な幸福です。この幸福を逃すから、この美しさを知らずにいることは不幸なのです。逆に言えば、そうした場面の美しさに気づき、そこから善を見つけて喜びを得ることができるかどうかは私たちの心の在り方にかかっていると言えます。私たちには、心の持ち方一つで、こういった幸福に出会える可能性をいつも日常の風景の中に与えられ続けているのです。





 ですから私は今日も電車に乗ります。誰かが色鮮やかな蜜柑を窓から放り投げるのを静かに、じっと、楽しみに待ちながら―。
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